日本大学法学部野宿研究会      
GalleryU| 第二回富士登山
2011年07月30日

 今回の富士登山は私にとって二回目のものであった。
 一回目の富士登山は昨年の事であった。
 記念すべき第一回富士登山は登頂することだけに関して言えば、成功したと認識している。時間内に山頂に到達し、一番の目的であったご来光をベストポジションで拝むことが出来たからで ある。それどころか第二目的であったお鉢巡りをも制覇することが出来たのだ。

 しかしデジカメを持参し忘れ、せっかくお鉢巡りまで制覇することが出来たのにも関わらず、登山途中の数々の素晴らしい景色を粗末な携帯カメラで撮影することとなってしまった。
さらにせっかく登るなら記録を残そうと思い、高度変化を記録出来るGPSを持って行ったのだが、途中故障してしまい、無用の物となってしまった。
 また富士山の気温変化に対する認識の甘さから、装備が不十分で山頂では非常につらい思いをした。温かいものを飲んでいる他の登山客がうらやましく思えたのを覚えている。
 これらの経験から今年の登山は単に登頂するだけでなく、万全の準備の下、快適に、そして楽しく登ろうとの考えで臨んだのである。
 寒さ対策ではダウンジャケットの他、予備も含めた厚着のインナーを用意し、寒さ対策兼燃料補給として山頂で食べる用にカップ麺とココアを用意した。登山途中での支出を最小限に抑える ために、水も昨年以上に用意した。 記録用には十分に充電したデジカメ、修理したGPS、そして5合目から山頂までの気温変化を記録するために小型の温度計も用意した。さらに登山日の数週間前からは体調管理にも十分気 をつかった。

 こうして万全の準備で挑んだ2回目の富士登山であったが、結果から言うと失敗に終わった。 今年は私は山頂に辿りつくことさえ出来なかった。高山病を発症してしまったのである。
 以下、高山病発症の経緯と症状を簡単に交えて記述する。

 一体いつ発症したのかは定かではないが、6合目あたりから僅かに頭痛がし始めていた。
けれども高山病のことなど全く頭になかった私は、単に睡眠不足によるもので直に消えるだろうと勝手に思い込んでいた。
ところがその頭痛は消えるどころか悪化の一途を辿るばかりで、7合目を過ぎたあたりで吐き気を催し、ようやく高山病の可能性が頭を過った。それでも昨年登った時は発症しなかったのだ から、私は高山病にはかからない体質なのだという、これまた勝手な思い込みにより、高山病の可能性を打ち消してしまったのである。
 それに昨年一緒に登った時に高山病を発症したと思われる現部長は、遅れながらも山頂の地に立つことが出来たのだ。だから仮に高山病を発症しているとしても大丈夫なはずだ、という根 拠のない自信の下、山頂を目指して歩き続けた。今思えば高山病を発症したら下山する以外に改善の方法は無いと分かっていたのだから、そこで止めておけば良かったのである。
 しかしメンバーの一員として登っている以上、私が途中で辞めるとなれば確実にメンバーに迷惑をかけてしまう事になる。高山病にかかったのだと確証を得られなければ、途中で辞める事な ど到底出来やしなかった。高山病など単なる思い込みではないか、この吐き気も何か別の原因によるものだ、とどうしても高山病にかかったと信じることが出来なかった。
 それからしばらく歩き続けたが、具合は悪くなる一方で最終的に8合目の御来光館でギブアップすることとなった。他のメンバーはと言うと、皆私に付き合ってくれてくれた。 申し訳ないという気持ちと感謝の気持ちでいっぱいになった。
 結局、私のせいで山頂でのご来光参拝は叶わず、このご来光館で拝むこととなり、食事もこの場で摂ることとなった。
 辺りを見回すと、空は既に明るくなっていて同じ方角にカメラを構えた登山客が数多く見受けられた。
ご来光を拝んだ後、メンバーは持参してきたカップラメーンを食べ始めていたが、この時の私はそれどころではなく、ご来光館外に設置してあるトイレに駆け込んではひたすら嘔吐を繰り返し ていた。
 高山病の恐ろしいところは、まず第一に一切食べ物を受け付けなくなるところにある。5合目から歩き始めて6,7時間は経っているのにも関わらず全くお腹が空かないのだ。そして少しでも何 か食べようものならすぐ吐き気が襲ってくるのである。それでも何か口に入れてエネルギーを摂取しなくては下山するのも難しくなると考え、カップ麺のスープを口にしたのだが、すぐに吐いて しまった。結局、私の分のカップ麺は後輩らに食べてもらった。
 次に恐ろしいのが、嘔吐するに至るまで症状が悪化すると何回嘔吐しようとも治まらないところにある。一体、ご来光館で何回嘔吐したことか。驚いたのは胃が空っぽになっても尚嘔吐が治 まらなかったことである。自分の口から混合物を全く含まない蛍光掛かった黄色の液体が出てきた時は驚愕した。すぐにこれは胃液であると推測できたが、今まで混合物を含まない状態の 胃液など見たことが無かった私にとって非常に衝撃的であった。
 そして第三に恐ろしいのが、凄まじい倦怠感に襲われることにある。 頭痛がする以上にこの倦怠感は凄まじく、いや、もしかしたら頭痛と相まっての事なのかもしれないが、とにかく動きたくなくなるのだ。とにかくどこでも良いから横になりたいという衝動に駆ら れるのである。
 一般的に高山病というのは一度発症すると、その高度より下に下がらなければ改善しないと言われている。この事は発症当時も予備知識として知っていた。 だからこのまま同じ高度に留まったところで症状が改善される望みは薄い上に、食べ物は喉を通らない、食べたところですぐ吐いてしまう状態では悪循環によりますます悪化するだけだという のも分かっていた。一刻も早く下山しなければならなかった。
 他のメンバーがカップラーメンを食し終えた頃、時刻を確認するとまだ山頂に行って帰ってこれるだけの時間が残っていた。私は早く下山しなければならない、したかったが、先輩たちには 私が原因で山頂の地に立つことを諦めてもらいたくなかったので、私の事は構わず先に進んでくださいと懇願した。最初は一人には出来ないと拒んでいたのだが、奥山が私に付き合ってくれ ることになり、了承してくれた。
 一人で下山出来るとは言ったものの、正直今の状態で一人下山するのは厳しいと思っていた。そのため奥山が付き添ってくれる事に対して申し訳ないと思う一 方、救われた気持もあった。奥山は、自分は既に昨年の登山で山頂に辿りついているから気にするなと言ってくれた。なんて良い奴なんだと感動した。
 こうして私と奥山は下山を開始し、引き続き山頂を目指す先輩たちとは、下山ルート途中で合流することを約束に別れたのであった。
 いざ下山を開始してみると、一人で下山しなくて良かったと心底思った。もし一人だったならば、下山ルート途中の砂利道で小休止と言いつつ、横になったまま動こうとせず、結果バスの集合 時間に合わなかったであろう。休憩する度に下山を促してくれて本当に助かった。
 下山途中も当然嘔吐は止まらず、その時はゴミ袋用にと持ってきたビニール袋がエチケット袋として役に立った。まさかこんな使い道になるとは予測もしていなかったが、余分に持ってきて 正解だった。
 一時は本当に駄目かもしれないと思ったが、奥山が付き添ってくれたおかげでなんとか5合目まで時間内に戻ってくることが出来た。通常、下山に掛かる時間は山頂から3,4時間とされてい るが、私たちの場合は約5時間強かかった。それもそのはずで、途中の休憩も数えきれないほど取った上に、一度の休憩にかける時間も長かったのだから当然であろう。奥山はよく文句の 一つも言わず、ただ黙って私の休憩に付き合ってくれたなと改めて思う。ただ感謝の一言である。
 5合目に辿りついた頃には酸素濃度が増したためか、すっかり嘔吐の症状は治まり、依然として食欲は無く頭痛はするものの、だいぶ良くなってた。 そしてバスに乗り、麓に降りた頃には、あんなに嘔吐や頭痛に苦しんでいたのが嘘のように回復した。そこで改めてあれは高山病だったのだと再認識すると同時に、心配し荷物を負担してく れたメンバー、下山に付き合ってくれた奥山に対し感謝した。

後日談

 高山病に昨年はかからず今年はかかってしまった、その原因は一体何だったのだろうか。後日、高山病について調べたのだが、納得のいく原因は未だ特定できないままでいる。
 昨年と異なる点と言えば、雨が降っていたために低気圧になっていたこと、昨年より荷物の重さが増えたことの2点であろうか。
 確かに荷物が重くなれば、その分体力と酸素を消耗することになるし、雨が降って低気圧になっているということは、同じ高度でも気圧が低くなっているという事であるから、もしかしたらこれら の条件が重なって発症を招いたのかもしれない。
 ただ一つ言えることは自分の体力、そして能力を過信していたということである。つまるところ、初めて富士山に挑む後輩に山を舐めるなよと忠告していた私が、実は一番山を舐めていたと いうわけだ。初めて登る後輩の方がよっぽど慎重で山に謙虚であったと思う。普通なら笑える話ではあるが、今回は違う。私が高山病にかかってしまったために他のメンバーに迷惑をかけて しまったからである。それどころか、もっと病状が悪化していれば最悪救援隊を呼ぶことになっていたかもしれない。とても笑い話、冗談では済まされない。今回の登山では山の恐ろしさを身 を以て体験した。今回の出来事を真摯に受け止め、反省しなければならない。山に登るのは自己責任で、知識と体力、そして覚悟と謙虚さが必要なのだと思い知った。
著_恒屋


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